【1】サントリーのジャパニーズ・ウイスキーへの貢献が理解できる
ジャパニーズ・ウイスキーの発展と普及において、サントリーの貢献度は非常に大きく、サントリー無くして、ここまでの地位は確立できなかったといっても過言ではありません。サントリーはどのようにジャパニーズ・ウイスキーに貢献したのでしょうか。それでは見ていきたいと思います。
サントリーの創業から白札発売について
サントリの歴史は、1899年鳥井信治郎さんが大阪で鳥井商店を創業したことが始まりになります。その当時、ウイスキー自体はありましたが一般的ではなく、また非常に高価でした。安価なものとしては調合ウイスキーというものがありましたが、ウイスキーを模倣したものであり、ウイスキーとは別物でした。
※国内で日本人向けに初めて輸入されたウイスキーと言われている『猫印ウヰスキー』
引用元:戦前の日本とウイスキー【その2・全3回】 | WHISKY Magazine Japan
1907年に発売した『赤玉ポートワイン』で大ヒットとなり、蒸留所建設資金を得た鳥井さんは1923年に山崎蒸留所の建設を開始します。そして、その6年後に念願であった国内本格ウイスキーである『サントリーウイスキー(白札)』を世に送り出します。
※当時発売された『赤玉ポートワイン』のボトルと広告
引用元:赤玉の物語 赤玉スイートワイン サントリー (suntory.co.jp)
※当時発売された『サントリーウヰスキー(白札)』の現代版ボトルと当時の広告
引用元:WHISKY MUSEUM ジャパニーズウイスキー物語 水薫る 第二話 研鑽が生んだ傑作 (suntory.co.jp)
当時のスコッチが1本あたり5~7円に対し、白札は4円50銭の値付けで、且つ非常に挑戦的・好戦的な広告が打たれました。『これで、売れるぞ!』と思われましたが、残念ながら結果は芳しくありませんでした。その理由は、そもそもスコッチウイスキー自体がスモーキーすぎて、日本の食文化にあまりマッチしていなかったことでした。スコッチを模倣して造られた白札も同様にスモーキーであり、広く普及という観点では厳しい結果でした。
『角瓶』『オールド』等のヒット銘柄の発売について
当時の鳥井さんは『需要がないなら、需要をつくりだせばよい』と現代も引き継がれる企業文化で、日本文化・日本食に合うウイスキー造りに尽力されます。
それからの苦労については測りきれない程だと思われます。鳥井さんのブレンド技術の高さと、山崎蒸留所設立から10年以上経過しており、豊富で熟成が深い多種多様な原酒によりブレンドの幅が広がったことも味方し、ついに『角瓶』をはじめ『オールド』『トリス』といったロングセラー製品が発売されます。
サントリーは良い製品を生み出すだけでなく、マーケティング戦略も当時から優秀で、市場を作り出すことを得意としています。和食と合わせるウイスキーとして、広く広告や日本食屋に営業を展開し、ウイスキーの市場を作り出します。(二本箸作戦)
※当時発売された『角瓶』のボトル
引用元:WHISKY MUSEUM ジャパニーズウイスキー物語 水薫る 第三話 激動の中での熟成 (suntory.co.jp)
ウイスキー低迷と脱却について
上記のグラフはウイスキーの国内出荷数量の推移を表しています。(出典:日本洋酒酒造組合)ウイスキーの出荷量(≒消費量)は1983年頃をピークに減少傾向に転じ、2009年から現在まで大きく回復している事が分かります。
2009年から回復傾向に転じた大きな要因は、サントリーによるウイスキーの飲み方の提案戦略にあります。それまではロックやお湯割り、水割り等が主流でしたが、角ハイボールによる、若手層の取り込みやビールからの置き換え提案戦略によりブームとなり、大幅に出荷量が回復していくこととなります。まさしく、『需要がないなら、需要をつくりだせばよい』を体現されています。
近年のジャパニーズブームについて
近年は、角ハイボールだけでなく、『山崎』『白州』『響』等が世界的酒類コンペティションで多くの賞を受賞し、ジャパニーズ・ウイスキーの地位をより一層高めることに貢献されました。まさしく、日本にウイスキー文化を根付かせて、開花させた素晴らしい企業なのです。そして現在では、世界大3位のスピリッツメーカーとして、ジャパニーズ・ウイスキーだけでなく、スコッチやアメリカン等幅広く扱われています。
以上、本日はサントリーのウイスキーへの偉大な貢献について見てみました。